人生の最期。「亡くなり方」にこそ尊厳を。
それぞれがどのような最期を迎えたいのか。
そしてそれぞれの迎えたい最期をいかに実現するか。
それを邪魔しないこと、そしてサポートすることが政治の役割です。
写真は、僕の小さい頃、
数年前に亡くなった僕が大好きだった祖母、曽祖母です。
こわいおじいちゃんと対照的な優しいおばあちゃんで、
小さいころから夏休みと正月に父の実家の
「神戸のおばあちゃん」の家に行くのが関家の慣習でした。
最期の数年は、認知症も進み、意思疎通はなかなかできませんでした。
ひ孫にあたる僕の子どもたちも何度か会うことはできましたが、
こちらは認識していると信じていますが、
おばあちゃんが何を思っていたかは正直わかりません。
僕の周りでも亡くなった方がいて、
最期は意思疎通がなかなかできない状態が続いて亡くなったということです。
ガンが転移を繰り返し、すさまじい苦しい思いをしている方が
海外で安楽死を選択するという方の話を読みました。
色々な選択肢があるべきです。痛いのや苦しいのは嫌だけど、
口からご飯を食べられなくなったら苦しまずにこの世を去りたい。
苦痛を和らげる以外の医療行為は受けずに
家族と家で暮らしながら最期を迎えたい。
色々な選択肢があると思います。
元気なうちにしっかりと人生の最期をどのように迎えたいのか。
家族で共有しておきたいですね。
そして国家として、個人の尊厳を維持するために、
家族で自宅で暮らしたいのか、病院で暮らしたいのか。
それを実現させるためにどういう社会制度が必要なのか。
介護予防と、介護に劇的に予算の分配を変えるべきです。
政治力のある業界に、
慣例通り予算を分配する時代は終わらせなければなりません。
#全ては次世代のために