わざわざめんどくさく?
お祭り、無事終わって何よりです。
ぎっくり腰の深刻化と引き換えに、仲間全員の手筒花火の成功、
おみこしを含むパレードも雨に降られたものの一体感が醸成されました。
ところで「文化の非合理性と文明の合理性」という言葉が改めて頭に浮かびました。
阿部謹也一橋大学名誉教授の本を大学生の時に読んで今でも覚えています。
例えば「茶道」は、わざわざ「お作法」を創りだし、
誰もが入ることができないようにしてその中にいる人たちの一体感を醸成します。
わざわざめんどくさくすることで、
その中にいる仲間が一体感を得て、
親密な社会を醸成することに役立っています。
お祭りも手筒花火もその一つです。
そして文明は、例えば「信号機」など、
誰もが簡単に、効率よく理解したり使用したりできることが大切になります。
簡単に、目的のために最も合理的であることが必要です。
この使い分けが大切だという主張です。
手筒花火でいえば、何より安全を意識しなければいけない火薬を取り扱う部分と竹を切ってきて、
手作りで時間をかけて制作し、わざわざ持って火の粉を浴びながら奉納するという部分が混在しています。
同様の例でいえば、僕が消防団を素晴らしいという投稿をしたら
「やめられない」「意味がない」など袋叩きにあいました。
これは「火を消す」という合理的な目的を持つ集団に
全員で一糸乱れぬ動きを競う「操法訓練」や「年末夜警」として分所に年末の忙しい時期に待機する活動は、
現代の若者世代には合理的ではなく非合理的な「お作法」だと映っているのだと感じました。
この現代の若者が感じる違和感を
阿部名誉教授は「世間」という見えざる掟が強く作用していると指摘しています。
「世間」は、日本人の歴史意識と行動様式を規定してきました。
それは、勤勉さや協調性といった日本人が大好きな価値観をうみだした一方で、
強烈な同調圧力や、異物を排除する暴力性をも内包しているのです。
時代が変わった今、この指摘はさらにその意義が高まっているといえます。
文化と文明をごちゃまぜにすると、コミュニティは崩壊します。
僕のようなおじさん世代に言わせると「そんなさみしいこと言うなよ」という部分もありますが、
企業、自治会、親同士の仲間、お祭り、消防団、すべての組織で当てはまるのかもしれません。















